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Sagamore Hill
Sagamore Hill_c0061496_1371920.jpg日曜日は久々に朝から良いお天気だったので、Oyster Bayのサガモア・ヒル(Sagamore Hill)に出かけてきました。

秋のお祭りで有名なOyster Bayですが、ここはまた第26代大統領セオドア・ルーズベルト(Theodore Roosevelt)が暮らした場所としても有名です。

注:Rooseveltはローズベルトと発音しますが、この日記ではルーズベルトとします。

いただいた日本語パンフレットによれば、セオドア・ルーズベルトとOyster Bayの関係は、彼が15歳の時に始まったようです。1858年10月27日、マンハッタンの東20丁目にある裕福な家の長男として、ルーズベルトは誕生します。幼少期はマンハッタンで過ごしていたようですが、15歳のときに父が家族で過ごす夏の別荘をOyster Bayに建てると、以降は休みのたびにここを訪れ、近くのCove Neckの野原や樹林を探検して過ごすようになったようです。

1880年にハーバードを卒業すると、彼は婚約者のアリス・ハサウェイ・リーとともに、サガモア・ヒルに63万ヘクタールの土地を購入します。(1万ドルは頭金として払い、残りの2万ドルは20年ローンだったそうです。)そして間もなくニューヨークのラム・アンド・リッチ社に屋敷の設計を依頼しますが、工事の最終契約がまとまる前の1884年に、妻と母が同じ日に自宅で息を引き取ってしまいます。待望の第1子、娘のアリスの誕生からわずか2日後の出来事だったそうです。

妻と母を失い、生後間もない娘とふたり暮らしとなったルーズベルトは、娘の暮らしにふさわしい住まいを持つために、すぐにロングアイランドのジョン・A・ウッド・アンド・サン・オブ・ローレンス社と契約し、1万7千ドルをかけて亡き妻と計画していた家の工事を始めます。そして翌年完成した屋敷に、幼い娘と、自分の妹であるアナと移り住んだそうです。

ちなみに大学卒業後、1881年から1884年までニューヨーク州議会員を勤めていたルーズベルトですが、妻の亡くなった84年には議員を辞職し、86年まではノースダコタで農場を経営していたそうです。そのため、サガモア・ヒルに引っ越した当初は、新居とノースダコタを行き来する生活を送っていたようですが、間もなく幼馴染のイーディス・カーミット・カーロウとの交際が始まり、1886年12月に再婚。翌春ふたりでサガモア・ヒルに引っ越したそうです。この年にはニューヨーク州議会議員にも復帰したようで、以降公職で留守にせざるをえない場合を除き、一家はここでずっと暮らしていたそうです。ちなみにイーディス彼女との間に産まれた5人の子供(セオドア・ルーズベルト・ジュニア、カーミット、エセル、アーチボルド、クウェンティン)は、いずれもOyster Bayで誕生しているそうです。

再婚後は、1889-95年:合衆国管吏制度改革委員会、1995-97年:ニューヨーク市警長官、1997-98年:海軍次官と要職を転任します。そして1898年のアメリカ・スペイン戦争では、初の義勇騎兵隊「ラフ・ライダーズ」の連体指揮官となります。

Sagamore Hill_c0061496_259289.jpghaJime's Home Pageによれば、このときルーズベルトは常に全軍の先頭に立ち、長い剣を振りながら大声で「来れ!来れ!」と叫んだそうです。それまでの将軍の号令が「進め!進め!」であったのに対し、ルーズベルトは先頭に立って自らが闘争の意志を鮮烈に示し、これにより彼の軍は連戦連勝したそうです。(写真はラフ・ライダーズの帽子)


この戦いで国民的なヒーローとなったルーズベルトは、1898年に共和党員としてニューヨーク州知事に当選します。そして1900年には合衆国副大統領に就任、翌1901年、大統領であったマッキンリーが暗殺されると、第26代合衆国大統領に昇格したのでした。就任時の42歳と10ヶ月という年齢は、史上最年少だったそうです。

大統領就任直後から、彼は積極外交を展開する一方、独占企業の規制や自然資源の保護を推進したようです。またこの間サガモア・ヒルは「夏のホワイトハウス」とも呼ばれ、国家業務の中心として機能していたようです。中でも有名な出来事が、1905年8月の日露戦争の調停です。ルーズベルトは当時戦争真っ只中だった日本とロシアの特命全権大使をサガモア・ヒルの屋敷に招き、書斎で別々に会って対談を取り持ったそうです。これをきっかけに公使たちが会議をはじめ、同年9月5日ポーツマス条約が締結しました。ルーズベルトはこの功績をたたえられ、1906年にノーベル平和賞を受賞しています。このときの記念だと思うのですが、サガモア・ヒルの屋敷には「東郷」(平八郎のことか?)から贈られた兜の人形と、衣装ケース(大きな木箱)」が置かれていました。

高い人気にも関わらず、ルーズベルトは1908年の大統領選には出馬せず、代わりに彼の政策を継続してくれる長年の友人ウィリアム・ハワード・タフトを支持します。しかしタフトの勝利後、自分の政策に反する考えを持つことが分かり、1912年、ルーズベルトは革新党(ブル・ムース)公認候補として大統領選に立候補します。しかしルーズベルトの出馬により共和党の支持票が割れてしまい、友人のタフト以上に嫌っていた民主党のウィルソンが当選。ルーズベルトはウィルソンの再選を防ぐため、1916年の大統領選に再び立候補しましたが、再び大統領に就任することはありませんでした。

大統領を退いたあとのルーズベルトは、アフリカや南米に狩猟や探検旅行に出かけていたそうです。1914年にはのアマゾンを旅行しますが、旅行中に熱病に感染し、その後遺症から1919年1月6日、サガモア・ヒルの自宅で眠りについたまま60歳の生涯に幕を閉じたそうです。亡くなる前日、彼は妻のイーディスに「私がどれほどサガモア・ヒルを愛しているか、いつか君にも分かるだろうか」と言い残したそうです。

Oyster BayとLong Island海峡を望む高台にあるルーズベルトの屋敷は、年末に出かけたNew Portのマンション郡のような華やかさこそありませんでしたが、木をふんだんに使った、雰囲気のある家でした。鳥類学者、大きな動物のハンターとしても知られるルーズベルトらしく、屋敷の中にはたくさんの剥製や毛皮の敷物、それに動物や鳥の絵や写真、彫刻が飾られていました。毛皮にはほとんど顔と尻尾がついていて、夜にはお邪魔したくない感じですが、それでも何となくぬくもりを感じるつくりになっていました。ちなみに家の中にある剥製や毛皮については、小さな男の子が「全部ルーズベルトがしとめたの?」と質問したところ、案内係のおじさんは「Almost」と答えていました。動物愛護家が見たら発狂しそうな数です…。

なお1階奥の北の部屋には、ルーズベルトの旗と紋章が変わられていました。係りの方の説明によると、アメリカの大統領はそれぞれ自分の旗と紋章を持っているとのことです。館内は撮影禁止だったため写真はありませんが、See Americaに北の部屋の写真があるので、そちらをのぞいてみてください。奥の壁に貼られている赤い旗が、ルーズベルトの旗だそうです。

1時間ほどかけてツアーで家の中を見学したあとは、息子セオドア・ルーズベルト・ジュニアの私邸を改築したオーチャードミュージアムを見学し、かつてルーズベルト一家が歩いただろう小道(結構長い)を通って海まで歩いてみました。子供たちと遊ぶ時間を大切にしたというルーズベルト一家にとって、Cold Spring Horberに面し、林に囲まれたこの家は、さぞかしたくさんの思い出が詰まっているのでしょうね。何となくですが、ルーズベルトを身近に感じた1日でした。

ちなみにサガモア・ヒルという名前は、この丘陵地を譲り渡したネイティブアメリカンの小部族、モニハス族の年老いたサガモア(首長)から由来するそうです。当初は亡き妻リーをしのんでリーハウスと名づけるつもりだったそうですが、イーディスとの交際が始まったことからこの名前になったそうです。屋敷の中には唯一1枚だけ、亡き妻アリスの写真が娘アリスの部屋に飾られているそうです。

Sagamore Hill_c0061496_1375199.jpgSagamore Hill_c0061496_138475.jpg
by ny-cafe | 2006-04-10 22:22 | I love Long Island